中国輸入の代行会社を設立し、幅広く活躍中の酒井隆太氏。
創業までの苦労や出会いなど、中国貿易にまつわるすべてをご本人に直接インタビューしました。
幼いころから興味を持っていた海外
――自己紹介をお願いします。
株式会社誠代表取締役の酒井隆太と申します。よろしくお願いいたします。
――幼少期からの経歴を教えてください。
私は元々海外が好きだったんです。
小学校三年生ぐらいの時に、父親がビートルズなどの50~60年代のカセットを持っていて、それを子供ながらに聞いてたんですよね。
それで海外イコール英語なんだと勝手に思っていて、アルファベットの単語帳を買ってもらって勉強をしていました。
バックパッカーとして世界を旅する
――当時からそういう世界に興味があったんですね。
そうですね。
おそらくそれが根底にあると思います。
例えば高校生の時にアメリカに行かせてもらったり、就職してからは個人で週末バックパッカーをしていました。
10~20年くらい前、流行ってたじゃないですか週末バックバックって。
沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読んで香港に行ってどんな感じかなとか。
当時ちょっと変わってましたけれど、世界に興味があったんですよ。
特に東南アジアはなぜかよく行きましたね。
――どの国へ行きましたか。
タイ、マレーシア、シンガポール、ベトナム、ラオス、インドネシア、その辺りです。
一番良かったのはタイからシンガポールまでのマレー鉄道ですね。
今は通ってないのかな。
――今は通ってないみたいですね。
昔通ってたんだけれど、分断されちゃって。
西側が電車で一周繋がってたんです。
タイを横断してまた東回りで降りてくるみたいなマレー鉄道一周が楽しかったですね。
僕はホテルも予約しないでいくスタイルなので、当日の気分で決めてやっていく、そんな感じの海外が好きだったんです。
――冒険家だったんですね。
そうです。ワクワクしましたね。
明日何があるんだろうみたいな。
院卒の理系なのに、CDを売る仕事に就職
――社会人になってからは、どんなことをされていたのですか。
最初に働いた会社がTSUTAYA系のフランチャイズの会社でした。
私は元々音楽が好きで、CDを売りたかったんですよね。
2000年くらいのエイベックスが全盛期あたりの時期でした。
けれども音楽CDなどのメディアが、今となってはどんどん淘汰されてきてるじゃないですか。
音楽の全盛期が過ぎていって下降気味になってきたんですよね。
私は元々、宇宙素粒子の大学院を出ているんですよ。
それでTSUTAYAで就職したものですから、何でお前がここにいるんだみたいな感じ。
大抵文系の人で、私以外の理系はあと一人くらいでした。
大学院卒もいませんでしたね。
新入社員で副社長の鞄持ちに
――賢い。
いえいえ、興味があってやっていて、それも本当に宇宙が好きだったっていう。
ノーベル賞をとったニュートリノの小柴さんという方がいて。
中学生の時、その小柴さんと一緒の研究をしたいと思っていたんです。
それも夢が叶って大学院までいけました。
ただやってると分かってくるんですけど、どんどん狭い世界になってくるんです。
これはちょっと耐えられないなと感じて一回外に出たんですよね。
社会で仕事をしてもっと視野広げていきたいなと思ったときに、CDを売りたくて入ったTSUTAYAで、なぜか副社長の鞄持ちになっちゃうんですよ、新入社員で。
――期待されてたんですね。
自分でも言うのもあれなんですけど、そうではないとならないですもんね。
副社長の鞄持ちをさせていただいたっていうのが、今につながっています。
副社長を通じて経営や会社のことを本当に色々教わったという感じですね。
その中で主に新規事業の担当をさせていただきました。
もちろんBS(貸借対照表)やPL(損益計算書)とかを見たり作ったりっていうのは教わったんですが、それは別に興味ないじゃないですか。
見ればいいって感じなので。
新規事業で海外、当時韓流が流行っていた韓国からサプライヤー通じて物を入れて売ったり、中国へ行ってDVDのOEMなどをしていました。
中国貿易をはじめたきっかけ
――そこからはどのように進んでいったんでしょうか。
TSUTAYAなので、本とレンタルがメインの事業ですね。
今もTSUTAYAと言えばそうですよね。
――変わったと聞いていますが。
本体はそうですね。
ネット事業や海外展開もやっていますしね。
でもフランチャイズはもう言い方が悪いですが接収されています。
ロイヤリティ払って、右肩下がりになってる。
いつも資料を見てきたので、今後こうなっていくんだろうなっていうのが見えてたんですよね。
それで入社して8年で辞めたんです。
辞めてからも私の中で海外っていう切り口がずっとあったんです。
最初は何でもいいなと思っていて、ログハウスのログ材を輸入する上場企業に転職したんですが、合わなくて3ヶ月辞めたんです。
そのあと香港に行って。
バックパッカー時代、台湾も結構行ったんですよね。
台湾が好きで、それもあってその時に妻と結婚したんです。
台湾人の妻。それも中国とつながりますね。
台湾人の妻との出会い
――台湾はご飯が美味しいですもんね。
おいしい。おいしいし人も暖かいです。
気候が暖かいところって人も温かいっていうじゃないですか。
台湾は好きだったんです。
あとは中国よりも漢字が通じる。
繁体字だから、日本の漢字がそのまま使えるじゃないですか。
中国の簡体字って未だによく分からなくて。
――奥さまとはどうお話されてるんですか。
妻とは日本語ですよ。日本にいるので。
――日本語がペラペラな台湾人の奥さまだったんですか。
台湾から日本に帰ってきての交流会でいまの妻と知り合いました。
日台交流会を自分が主催していたんですよね。
自分が主催した交流会に今の妻が来ていて、知り合って3ヶ月ぐらいで結婚しましたね。
――交流会を主催するというのは、社長らしいですね。
そうかな。結婚したかったのかな、分からないですけど。
台湾が好きっていうのは、一番根底にあったかもしれないですね。
いろんな交流会に参加させて頂いて、自分もこういうのやってみたいなって思っていました。
動いた結果、今の妻と知り合えたので、動かないと始まらない、動いてよかったなっていうのはあります。
香港からの帰国
――そこから今のビジネスを始めた経緯を教えてください。
妻と2人で香港に行ったんです。
海外で仕事をしたいということで、中国語と英語が通じる香港、シンガポールという候補があったんですよ。
簡単に行ける職種だと塾の講師かなということで、何社か面接を受けて結局香港にしました。
シンガポールと迷ったんですけどね。
でも香港に行ってしばらくして暴動が起きたんです。
――中国と統一するという法律ができたんですよね。
そうですね。
僕、尖沙咀 (チムサーチョイ)の方に住んでたんですよ。
尖沙咀って分かりますかね、大陸側じゃなくて島になってる方です。
――九龍とか。
そうそう。
そっちに住んでいて、職場は橋を渡って行かないといけなかったから。
そこがバリケードで離れちゃったんです。
――そこの橋が。
橋の手前。あそこの手前に香港大学があるんですよ。
そこに学生が結構いたので、仕事に行きづらくなったこともあって日本に帰国することにしました。
観光地としての香港は好きなんですが、実際に住むとなると衛生面など住みにくい部分も見えたのでずっと香港にいようとは思っていませんでしたね。
それで日本に帰ってきて、大手の大学進学塾で講師をしていました。
ひとまず生活のためにやっていた感じですね。
並行してそこで最初に欧米輸入を始めたんです。
この辺からCDの欧米輸入をしていました。
音楽が好きって言ってたじゃないですか。
CDをアメリカのアマゾンから仕入れて、日本のアマゾンで売るという転売ですね。
自分の音楽知識と、その当時あった欧米輸入の本一冊読んで始めたんですが、それでいけるかなと思って半年ぐらいしてコンサルを受けたんですよ。
欧米輸入をされているとしぞーさんという方のコンサルを受けて2ヶ月目で月利20万ぐらいいったんですよね。
もうちょっと頑張れば独立できるなと思ったんです。
としぞーさんには海外メーカーとの交渉の仕方などを教わって月利100万円ぐらいいってから会社を辞めました。
日本に帰ってきてから1年半~2年くらいかな。
それが輸入ビジネスを始めた最初ですね。
代行会社を設立したきっかけ
――今の中国輸入の代行会社設立の経緯を教えてください。
欧米輸入である程度行けるとなったので、その後に中国輸入もやろうかなと。
妻は中国人だし、中国とも取引できるんじゃないのかなと思ったんですよね。
としぞーさんの知り合いの方が中国輸入の2万円ぐらいの教材を作ったっていうメルマガが来たので、それを買って勉強したら中国輸入全然いけるなって。
僕にはこっちの方が合ってるかなという感じで始めました。
ノウハウはあんまり変わらないんだよ、仕入先が違うだけなので。
そして中国輸入を個人事業主として2年ぐらいやったのかな。
それから直接アリババから仕入れる方法じゃなくて個人の代行を通じて仕入れるようになりました。
ここら辺からちょっと中国輸入っぽい話になってくるんですが、中国人のパートナーって個人でやっているから色んな理由で結構いなくなっちゃったりするんです。
運が良かった、代行のパートナーとの出会い
――条件が良い方に移っていくので急に連絡取れなくなることが多いみたいですね。その辺はどのように脱却されたのですか。
それでこれはもう転機だったと思うんですが、欲しい商品はあるけど、どんどん人が変わって中国側が安定しない。
そんな時今のパートナーと知り合ったんです。
本当たまたま。
1時間ぐらいスカイプで話をしたら家族構成とか年齢も同じで、日本に12年ぐらいいて日本語もペラペラでした。
かといって別に代行をしてた訳ではなくて、別の事業をしている方だったんですよね。
その事業の隙間時間を埋めるための仕事を探していたんです。
そしてじゃあ一緒にやってみますかってなったんですよ。
今のパートナーは中国輸入がどんなものか知らなかったので、私が教えていきました。
例えば日本だとアマゾンとかいろんなサイトがあって、こういうところに納品していきます。
日本人が検品に求めているのはこういうところだからとか。
パートナーは元々SEだったので、色々と仕組み化してくれました。
ここは運が良かったところなんですが、そこまでできるんだったらパッケージにしてもっと事業を大きくできるんじゃないかという話をしていく中で、「代行」っていうキーワードが始まったんですよね。
ビジネスの強みやこだわり
――今のビジネスをしている中でこだわりや強みを教えてください。
これは今私自身の課題でもあるんです。
設立当時掲げていた強みっていうのは、ナンバーワンになりたいっていうのがあったんですよ。
でも何のナンバーワンなんだっていうのは明確にしてなかったんですよね。
結構右肩上がりで来ていたのでそれでいいかなと思っていたんですが、コロナになって特にこの3年は思うように伸びてないなというのがありました。
強みの部分とかSWOT分析を自分でした時に、これって今他社でもできてるんじゃないかなと思うようになってきたんです。
代行って何がそれぞれ違うのかなってすごく最近思うようになってきたんですよね。
――アピールポイントがちょっと弱気な感じでもいいんですか。それはそれですごく正直な感じで好印象ですが。
いやでも本当に思いますよ。
ここが強いとか結局そのお客さんがどう感じなさるかですよね。
うちは、他社さんでやられているようなコンサルの先生を通じての集客を積極的にしてないんです。
他社さんだとコンサルの先生のお弟子さんが紹介を通じて代行業者に来るんです。
そのお客さんは継続性や取引量もあったりする訳だから安定的に経営ができるのかなっていうのは思いますね。
だからそういう仕組みの方がいいのかなとか思って。
怪しいイメージがあるからこそ誠実にする
――逆に。
そうそう、思ってるんです。
だけど誠としては、そこの路線に行こうとは思ってないんですよね。
今更そこに行っても結局他社と同じことをやることになるから。
そういう個人向けの事業は、今まで誠がやってきた路線で続けていって、おかげさまで売り上げは右肩下がりになっているんですけど。
分析すると、特に今年は為替の影響が大きいなと思っています。
円安になっても入会者の数や利用者数って変わってないんですよね。
客単価が著しく減っているのは、もう為替の影響じゃないかと思っているので、継続して誠のサービスを続けていけばいいのかなと思う。
なぜそう思ってるかと言うと、ここが強みなのかもしれないですけれど、ノウハウっていう以前に多分「誠実さ」があるから。
誠って誠実の誠じゃないですか。
それは最初からずっと僕の頭の中であったんです。
中国輸入って先ほどお話がありましたように、日本人に信用されてないから。
――おっしゃる通り。
知らない国同士でビジネスやるのは何か怪しいですよね。
特に中国人となると怪しいっていうイメージ、あと中国の品質は悪いっていう、もう何十年前の感覚が今日本にはあると思うし。
そういうのを払拭したいというのがあって、「誠」という名前で始めました。
本当にそこにもう集約されてるのかな。
もうそれしかないって言っていいぐらいそこが強みですね。
これから中国輸入誠のサービスを利用したい方に向けて
――株式会社誠という社名は本当に誠実にされているからこそというのがよく伝わってきました。最後に御社のサービスを利用したいと考えている方に一言お願いします。
誠という誠実さっていうのは文字であったり、このようにお話をさせていただいても、なかなか伝わらない部分だと思うんですよね。
なので結局中国輸入をやるのは自分なので、ひとまず誠を利用してみて、経験してどう思うかという自分軸で判断いただくのがいいかなと思っています。
かかる費用も商品代など使った分だけなので、利用しやすい環境だと思います。
利用してみて良ければ継続、合わないなら他社も検討というのがいいのかなと。
中国輸入を初めて利用する代行としては非常に利用しやすいので、ぜひ利用してみていただけると嬉しいです。
取材協力:中国輸入代行 誠
編集部より一言
数々の出会いを経て、出会うべくして出会った中国貿易の代行業。
誠実にお客様と向き合っている姿が印象的でした。