古代ギリシア時代の哲学者、ソクラテスが言ったとされる「無知の知」という言葉。誰もが一度は耳にしたことがあるはずです。正しく理解すれば仕事でもプライベートでも役立つ、まさに名言中の名言ですが、誤用されることが多いのも事実です。
そもそも、ソクラテス自身は「無知の知」と発言したことはありません。「無知」という言葉のニュアンスにも誤解が含まれています。というわけで今回は、「無知の知」の本来の意味や歴史的経緯などをお伝えしていきます。
ソクラテスと「無知の知」の関係とは?
まずは、ソクラテス自身と「無知の知」の関係を解説していきます。
ソクラテス自身の姿勢を表した「無知の知」
「無知の知」とは、「自分がまだ何も知らないことを自覚する」という意味で、ソクラテス自身の学問に対する姿勢を表した言葉です。当時の古代ギリシアでは、万物の始原(アルケー)についての議論が盛んになされていました。この世界は何でできているのか、当時の高名な哲学者たちはこぞって主張しています。
アルケーについては、タレスは「水である」と主張し、アナクシメネスは「空気である」、ヘラクレイトスは「火である」と主張しました。彼らは、アルケーを含めてなんでも知っている者という意味で「ソフィスト(知者)」と呼ばれます。
そのような中、ソクラテスは「自分は何も知らない」、そして「知らないことを自覚している」というスタンスを貫き、「自分はソフィストではない」と主張しました。これは、それまでのギリシア哲学にはなかった画期的な考え方です。
「無知の知」は現代の私たちにも役立つ
哲学は、英語で「philosophy:フィロソフィー」と言います。これは古代ギリシア語で「知を愛する」という意味です。「自分は何も知らない」ことを自覚することで、現状に満足せず、「少しでも真理に近づきたい」という哲学本来の姿勢で世界と向き合えるようになります。
ソクラテス自身、生涯慢心せず、「人はいかに生きるべきか」、「よりよく生きるにはどうすればいいか」ということを問い続けました。ソクラテスの姿勢を表した「無知の知」は、私たちがより良く生きていくための指針にもなります。
ソクラテスが「無知の知」に至った理由
ソクラテスが「自分は何も知らない」、そして「知らないことを自覚する」という考えを持つようになったきっかけは、「デルフォイの神託」です。デルフォイの神託とは、「デルフォイ(デルポイ)」という都市で行われる神託のことです。デルポイは当時世界の中心と考えられていて、そこで得られた信託は多くの人々に尊重されていました。
あるとき、ソクラテスの弟子カイレホンが、デルポイで「ソクラテスよりも賢い者はいるか」と巫女に尋ねたところ、「一人もいない」という答えを得ました。それを知って驚いたソクラテスは自分より賢い者を探して各地を訪ね歩きます。
ところが、高名な人たちと実際に会って話してみると、実際のところ彼らは何も知らないことがわかりました。多くの人は「何も知らないのに知っている」と思い込んでいると気づいたソクラテスは、お告げのとおり、「知らないことを自覚している」自分が一番賢いかもしれないと思うに至ったのです。
「無知の知」を求め続けるあまり死刑に
ソクラテスは多くの賢人たちとの対話を繰り返す中で、相手が知らないこと、また知らないことを自覚していないことを次々と暴き、「ソクラテスこそが賢者である」という評判が広がっていきます。しかし、「ソクラテスに恥をかかされた」と根に持つ人たちも増えていき、やがて多くの市民から嫌われてしまうのです。その後、無実の罪で公開裁判にかけられたソクラテスは、死刑に処せられてしまいます。
ソクラテスが大切にしていた言葉「汝自身を知れ」
ソクラテスは、「汝自身を知れ」という言葉を大切にしていました。これは、ソクラテスが多大な影響を受けた「デルフォイのアポロン神殿」の入り口に刻まれている言葉の一つです。
「汝自身を知れ」という言葉自体の解釈はさまざまありますが、「無知の知」と同じ意味で用いられることがあります。いずれも、「まずは自分の状態をしることから始まる」ということです。
「無知の知」を使って現代を生き抜く方法とは?
では、現代の私たちは「無知の知」をどのように生かしていけばいいのでしょうか?近年ではAI(人工知能)が目覚ましい発展を遂げていて、「2030年には約50%の仕事がなくなる」というデータもあるほどです。
このような時代には、「自分の頭で考えること」が何より大切になります。そこで「無知の知」が大いに役に立ちます。
まずは自覚することから始まる
より自分の頭で考えられるようになるには、「考えようとする姿勢」が大切です。考えようとする姿勢は、「まだ十分考えられていない」という自覚から始まります。
とはいえ、現状の自分と向き合うことは簡単ではありません。そこで「無知の知」が役に立ちます。
「なんでも知っている」と思っている人が、実際はなんでも知っているどころか知らないことにさえ気づいていないように、「すでに自分の頭で考えられている」と思っている人ほど、考えられていないということです。
「無知の知」によって現状の自分と向き合えるようになると、謙虚になれます。「自分はもっと良くなれるはずだ」という期待があるから、自分の考え方・やり方に固執せずに、人の意見に素直に耳を傾けられます。
武道や茶道など、日本の伝統文化には「守破離」という考え方があります。
・まずは師匠の教えを徹底的に守ることから始まり(守)
・次第にアレンジできるようになり(破)
・最後にオリジナルを生み出す(離)
という流れを表した言葉です。
ところが、実際にはいきなりオリジナル(自己流)で挑んでしまう人が多いです。新しいやり方を試すのは怖かったり、自分なりのプライドがあったりするからです。
ここで「無知の知」という言葉を知っていると、自分の現状を客観的にみられるようになって、素直に人のやり方を取り入れることができるようになるので、本当に自分の頭で考えられるようにもなるというわけです。
「無知の知」とはとらわれに気づくこと
「無知の知」とは、現代の言葉で言い換えると「メタ認知」とほぼ同義です。メタ認知とは、自分の思考や感情を一歩引いて客観的に見ることを言います。メタ認知ができるようになると、たとえば、喧嘩をして「あー、むしゃくしゃする」と思ったとき、「あー、私は今むしゃくしゃしているなー」と冷静に眺めることができます。
つまり、思考や感情にとらわれづらくなります。「無知の知」とは、「とらわれに気づくこと」とも言いえます。とわられに気づくことの大切さを、ある親子の会話を例に見てみましょう。
親「(悪口を言った子どもに対して)どうしてそんなこと言うの!」
子「だって・・・」
親「言い訳しないの!人の気持ちを考えなさい!」
子「・・・ごめんなさい」
人の気持ちを考えることは大切です。この親の言っていることは正論ですが、当の本人が子どもの気持ちを考えていないという意味では間違っています。「自分はできている」と思っている人こそできていない。よくあるパターンです。
思い込みにとらわれている状態は、一歩引いてみないと自覚できません。だからこそ、「無知の知」が重要なんです。
問題点の自覚が明暗を分ける
「自分はできている」と思い込んでいる。この構図は、世の中にたくさんあります。
たとえば、組織を改革しようとするときに、問答無用で反対する人たちは「抵抗勢力」と呼ばれます。社会人経験のある人なら、組織を改革することがいかに大変かということをよくご存じのはずです。つまり、どこの組織にも抵抗勢力は一定数いる可能性が高いということです。
ところが、「自分こそが抵抗勢力だ」と思っている人はどれだけいるでしょうか?おそらくほとんどいないはずです。
「抵抗勢力」という言葉には、どこか古めかしさを揶揄するような否定的なニュアンスが含まれているからです。「自分こそが抵抗勢力だ」と認めるのは怖いからです。
ここまでお伝えしてきたように、自覚しなければ変わることもできません。結果的に、抵抗勢力は抵抗勢力であり続けます。
「無知の知」を意識すると謙虚になる
この記事を読んでくれているあなたは、「無知の知」について知りたいはずです。『無知の知』の意味を(今はまだ)知らないと認めているという意味では、すでに「無知の知」を意識できています。
「何を当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、世の中にはこれができない人たちがたくさんいます。「無知の知」と聞いて、「あー、ソクラテスのあれでしょ?」とわかったような気になって終わってしまう人が大半です。
「自分はできている」と思い込んでいる人たちは、何か問題が起こったときに人のせいにしがちです。「自分はできているのに問題が起こるということは、周りの環境に問題があるからだ」と考えています。
一方、「無知の知」を意識できる人は、自分ができることを探そうとします。「自分に改善できることはないかな」と思えるようになるわけです。
どちらが結果につながるかは明らかです。
超一流の人が謙虚な理由
学者や職人、プロスポーツ選手など、一つのことを極めた人には謙虚な人が多いです。「自分なんて大したことない」、「自分はまだ何も知らない」という発言を聞いたことがある人も多いはずです。これは、いたって当然のことです。
シャボン玉を思い浮かべてみてください。シャボン玉の内側を「すでに知っていること」、外側を「未知の領域」としましょう。シャボン玉が大きくなるほど、表面積も急速に大きくなります(球体の表面積は半径の2乗に比例します)。
つまり、知っていることが増えれば増えるほど、目の前にある未知の領域も急速に大きくなっていきます。逆に言えば、「無知の知」の意味するとおり、「自分はなんでも知っている」と思っているということは、それだけシャボン玉が小さい状態、つまり何も知らない状態だということです。
科学的に証明された「無知の知」の大切さ
2018年、アメリカにあるペパーダイン大学で、「無知の知」に関するある研究が行われました。テーマは「知的謙遜」についてです。身
知的謙遜な状態とは、まさに「無知の知」、「汝自身を知れ」を実践できている状態のこと。知的謙遜の反対が「知的過信(自信過剰)」です。
知的謙遜と知識の関係
ペパーダイン大学の心理学者マンカソ氏らは、知的謙遜について調査するために、1,200人の参加者に対して5つの実験を行いました。まずは研究チームが開発した知的謙遜の度合いを測る独自のスケールで、参加者たちの知的謙遜度合いを調べました。
その結果、知的謙遜度合いが高い人は一般的な知識が多いことがわかりました。つまり、多くのことを知っている人ほど「知らないことを自覚している」ということです。
まずは自分が知らないことを認める
この実験結果を受けて、「知的謙遜の度合いと知識の量が相関関係にあるということは、新しい知識を得るためには、まずは自分が知らないことを認めることから始まるということです。」と、マンカソ氏らは述べています。つまり、「無知の知」の大切さが科学的に証明されたということです。
知的謙遜にもデメリットがある
とはいえ、「知的謙遜の度合いが高ければ高いほどいいわけではない」と、マンカソ氏は言います。知的謙遜の度合いが高い人は、自分の認知能力を実際よりも低く評価することがわかっています。また、知的謙遜の度合いが高い人ほどGPA(1単位当たり平均値)が低い傾向にあることも明らかです。
「自分に自信を持つべき」という世間一般の風潮に対して、知的謙遜の度合いが高い人の素直さは、「弱さ」や「不安定さ」と受け取れられてしまう可能性があります。そこで、「知的謙遜に対する理解を深めることが大切である」とマンカソ氏は締めくくっています。
「無知の知」は誤解だらけ!?
冒頭にお伝えしたとおり、「無知の知」はソクラテスの発言ではありません。ソクラテス自身の学問に対する姿勢を表した言葉です。
しかし、「『無知の知』という言葉自体がソクラテスに対する誤解を招く」と警鐘を鳴らす人物がいます。東京大学教授の納富信留氏です。
「無知の知」の本当の由来
「無知の知」という言葉の発祥はソクラテスではなく、15世紀のキリスト教思想家「ニコラウス・クザーヌス」の著作「docta ignorantia」の日本語訳です。
大正時代の「岩波哲学辞典」を見ると、「無知の知」とは「ドクタ・イグノランチアの訳語」と記されています。つまり、少なくとも大正時代までは、「無知の知」はソクラテスとは関係のない言葉だったということです。
「無知の知」という言葉が広がった理由
納富氏によると、「無知の知」と「ソクラテス」を最初に結びつけたのは、高橋里美氏(20世紀の哲学者)による記述です。
「ソクラテスは、当時『ソフィスト(なんでも知っている人の意)』と呼ばれていた人たちに対して、『私はただ知を求めているだけだ』として彼らとは明確に区別していた。
真の意味で知を探求するためには、まず自分が知らないことを自覚しなくてはならない。
その姿勢を『無知の知』というのである。知的謙遜の姿勢こそ、哲学者の名にふさわしいものである。」
ここで使われた「無知の知」という言葉がキャッチーだったため、一般に浸透していったのだろうと納富氏は主張します。
「無知の知」は間違っている!?
ここまでお伝えしたように、「無知の知」という言葉はソクラテス自身の発言ではなく、のちの哲学者である高橋氏によってソクラテスの学問に対する姿勢を表した言葉として定着したものと考えられます。
納富氏は語気を強めて次のように主張します。
「『無知の知』という言葉でソクラテスを理解しようとする姿勢は、哲学の始まりに対する理解を大きく妨げる、尋常ではない事態である。耳障りの言いキャッチフレーズに踊らされてはいけない。」
「無知の知」をソクラテスと関連付けること自体が誤りだという納富氏の主張を裏付ける証拠を見てみましょう。
「無知の知」と「無知の自覚」
ソクラテスは対話を重視したため書物を残していません。ソクラテスの思想については、彼の弟子であるプラトンの「対話篇」という書物によって知ることができます。そして対話篇には、「無知の知」という言葉は一度も登場しません。
ただ、先にも述べたとおり、ソクラテスは当時「ソフィスト」と呼ばれていた人たちと違って「知らない」ことを自覚していました。
「問題は、『無知の知』という言葉のニュアンスにある」と納富氏は主張します。一般的に使われる「無知の知」の対応関係は、次のようになります。
ソフィスト:本当は知らないのに、知っていると思っている
ソクラテス:本当は知らないことを知っているから、知っている
ソクラテスは、決して「自分が知っている」とは思っていませんでした。「知らないことを、そのとおり自覚している」が正解です。
正しくはこうなります。
ソフィスト:本当は知らないのに、知っていると思っている
ソクラテス:本当は知らないことを、そのとおり自覚している
つまり、「無知の知」ではなく、「無知の自覚」といったほうが正しいニュアンスになります。
「無知の自覚」と「不知の自覚」
納富氏によると、「無知」という言葉にも誤りがあります。正確には「無知」ではなく「不知」、つまり「無知の知」ではなく「不知の自覚」になります。ソクラテスの思想を残したプラトンは「無知」と「不知」を違う言葉として使い分けています。
「無知(アマティア)」とは、古代ギリシア語で「知ること」の否定を意味します。「自分は知っている」と思いこんでしまうと、もうこれ以上学ぶ必要はないと考えてしまうわけです。この無知の姿勢こそが、哲学を探求するうえで大きな害悪になると、ソクラテスは警鐘を鳴らしていました。
いわば何一つ知らないのに、すべてを知っていると私たちは思い、知識のないことを他人に頼ることなく、自分自身で行なって必然的に誤ってしまう。
(「法律」第5巻732A)
一方「不知(アグノイア)」とは、古代ギリシア語で「まだ知らない状態」を意味します。「これから知っていける」という前向きなニュアンスが含まれているということです。そして、不知を自覚することによって、「知りたい!」と思えるようになるわけです。
「不知」は、放っておくと「無知」に変化してしまいます。現代ではスマートフォンの普及もあって、気になることがあったらすぐに調べられますが、つい面倒くさくて「まあいいや」と、なんとなくわかった気になって終わってしまった経験は誰にでもあるはずです。
ソクラテスは、「不知」を「無知」ではなく「既知」にしようと常に探求し続けました。そのようなソクラテスの姿勢をひとことで表す言葉としては、やはり「無知の知」よりも「不知の自覚」が正しいと言えます。
【まとめ】「無知の知」を正しく理解して実生活に生かそう
「無知の知」という言葉の本当の意味を正しく理解することで、現代の私たちの生活はますます豊かになります。今回は、「無知の知」の歴史的経緯やソクラテスとの関係、現代社会での生かし方を解説してきました。さらに、納富氏による「無知の知」の誤解問題を取り上げました。
納富氏が「無知の知」という言葉を公に批判したのは2003年のことです。以来15年以上が経ちますが、今でも従来の意味で「無知の知」が使われ続けています。ソクラテスという偉大な哲学者に敬意を込めて、ぜひ「無知の知」ではなく「不知の自覚」を使ってみてください。