今では珍しくなくなった海外貿易ですが、戦国時代も盛んに海外貿易が行われていました。歴史の教科書で南蛮貿易と名付けられているものがそれです。
今回は、南蛮貿易の歴史と主な輸出入品について解説します。
南蛮貿易とは?
戦国時代、日本人はヨーロッパのことを南蛮と呼んでいました。南蛮貿易とは、戦国時代の日本とヨーロッパ諸国との貿易を指します。
ヨーロッパが日本へ来た理由
当時のヨーロッパは大航海時代で、多くの国の商人が世界各国を訪れていました。
そんな中、中国に滞在したイタリアの商人マルコ・ポーロが「日本は黄金の国である」という主旨の本を出版したのです。これにより、ヨーロッパ中の商人が日本を目指して船を進めました。これがヨーロッパ諸国の人々が戦国時代の日本へ訪れた理由とされています。
織田信長と南蛮貿易
戦国大名の中で特に南蛮貿易を推奨していたのは織田信長です。信長は鉄砲や西洋甲冑などの武器類を輸入して、軍備を強化しました。
また、楽市楽座や関所の撤廃など、数々の経済政策を実施していた信長は、南蛮貿易によりさらなる経済発展を期待したと推察されます。
さらに、信長は貿易のみならずキリスト教の布教にも寛容な姿勢を見せました。これは仏教勢力を抑える狙いがあったとされています。
南蛮貿易の場所
信長は南蛮貿易に寛容でしたが、直接領地で貿易していたわけではありません。日本で南蛮貿易が行われていた港は九州にある平戸と長崎です。
南蛮貿易の商品
南蛮貿易では様々な商品が輸出入されていました。国ごとの輸出入品を紹介します。
ヨーロッパからの輸入品
・火薬
・鉄砲
・大筒
・毛織物
・ガラス製品
ヨーロッパ諸国からの輸入品は火薬や鉄砲などの武器類がメインでした。特に火薬は日本では少ししか作れなかったため、ほとんど輸入に頼っていました。
中国からの輸入品
当時の日本はヨーロッパのみならずアジア諸国とも盛んに貿易をしていました。
特に中国との貿易が盛んで、生糸・絹製品・硝石(火薬の材料)を輸入していました。
東南アジア
東南アジア諸国からは、サメ・エイの皮や香辛料を輸入していました。サメ・エイの皮は、刀の柄に滑り止めとして使用されていました。
庶民に普及した物品
南蛮貿易により以下のような舶来品が庶民にも広まりました。
・カステラ
・パン
・ぶどう酒
・金平糖
・たばこ
・南蛮服(金の装飾やマント)
・オルガン
・カルタ
キリスト教
南蛮貿易によって外国の物品だけでなく宗教も日本に入ってきました。
宣教師フランシスコ・ザビエルは、九州各地の大名の元を訪れて鉄砲・メガネ・ぶどう酒などを贈呈することで大名からの保護を受け、それと同時に各地に協会や孤児院などを建設してキリスト教を広く布教しました。
キリシタン大名
活発な布教活動により、庶民だけでなく、大名がキリスト教信者になるケースもありました。以下の大名達はキリシタン大名として特に有名です。
・有馬晴信
・大友宗麟
・大村純忠
・黒田孝高
・小西行長
・高山右近
・内藤如安
・蒲生氏郷
・筒井定次
西洋医学
また、南蛮貿易により西洋医学の知識も日本へ入ってきました。
宣教師が患者のために建設した病院・孤児院では西洋の外科的治療が行われ、西洋医学が日本中に普及しました。
南蛮貿易の輸出品
当然日本も海外へ物品を輸出していました。主な輸出品としては以下のようなものがありました。
・銀
・硫黄
・海産物
・伝統工芸品
南蛮貿易の人種
南蛮貿易で主に働いていた人種は3種類です。
中国人
最も多かったのは中国人です。自国の貿易はもちろん、ポルトガルを始めとしたヨーロッパ諸国の航海士・船員としても多くの中国人が働いていました。
日本人
次に多かったのが日本人です。日本と外国との貿易なのですから、日本人が多く働いていたのは当然といえば当然ですね。
長崎や平戸に訪れる南蛮人と取引するために、日本中から商人が集まっていました。特に多かったのは博多の商人です。また、当時は南蛮人の寝床を提供するために多くの宿屋が営業していました。
ポルトガル人
南蛮貿易ではヨーロッパ諸国の多くの人々が日本へ訪れましたが、一番多かったのはポルトガル人です。
当時の日本人の間では「南蛮人=ポルトガル人」という共通認識があったほどです。
南蛮貿易時代の金融事情
南蛮貿易が行われていたときには、現在の関税に近いシステムが一部の国で導入されていました。また、日本では一部の豪商の間で海外貿易への投資も行われていました。
投銀
当時、日本の一部の豪商は、貿易船に対して銀を投資していました。これを投銀と言い、非常にギャンブル性の強い投資手法として有名でした。
日本の停泊料
当時の日本では、外国の貿易船が予定日数を超過して停泊した場合、停泊料(滞船料)を徴収していました。
中国の税
中国では、貿易船に対して停泊税を取るだけでなく関税も徴収していました。
カピタン・モールの輸送料
ポルトガル国王から航海の全権を託された司令官「カピタン・モール」は、商人から輸出を委託された物品から輸送料を徴収していました。
南蛮貿易の交通
南蛮貿易では、ヨーロッパから直接日本まで来る船はほとんどありませんでした。
ポルトガルから日本への航路
日本へ来るまでに、途中でインドやマレーシア、中国などに停泊していました。
南蛮貿易の終焉
織田信長の時代は盛んに南蛮貿易が行われていましたが、豊臣秀吉の時代になると雲行きが怪しくなってきました。
秀吉は急増するキリシタンに危機感を覚え、キリスト教の布教を制限して、一部の宣教師を処刑しだしました。
江戸幕府による鎖国
江戸時代になると完全にキリスト教が禁止され、スペインやポルトガルとの貿易は無くなってしまいました。
キリスト教を布教しないオランダや中国とは貿易が行われましたが、貿易場所は長崎の出島のみとなり、日本は鎖国時代に突入していったのです。
南蛮貿易
貿易では物品だけでなく、文化も入ってきます。それは南蛮貿易だけでなく、現在の貿易でも同じです。つまり、輸入業・輸出業をしている事業者は、文化の担い手でもあると言えるのです。